昭和58年12月10日 月次祭
御祈念中にメダカの学校というのを、幼稚園の子供達が歌います童謡の一節を頂いたんですけど。メダカの学校は水の中ですかね。信心も手習いも同じ事、一段一段上がって行くのだと教えられます。お互いの信心その内容が、我ながら一段一段分ったり進んだり、そういう有り難いと言う境地が広がって行っておるかどうかを、何時も確かめてまいりませんと、ややもするとメダカの学校は水の中にあります。合楽のお徳の中に泳いでおる私共でございますが。
ただメダカじゃないけれど、ぞろぞろとついて回っておると言うだけではね。その内容が乏しかったんでは、折角の御信心のまぁいうなら力をまたは、お徳を発揮することが出来ません。今日は御本部では報徳祭が執り行われております。こっからも若先生を先頭に、沢山の人がご参拝のおかげを頂いとる。それこそメダカの学校じゃないけれども、ぞろぞろとついていったと言うだけでは、形は形でありましても、内容が伴った御本部参拝であって初めて報徳の御祭りと。
以前は2代金光様と四神様と、3代金光様のお徳を讃え祀るお祭りでしたが、いまはそれがこう範囲が広く成っておるそうですね。ここでも16日にいわゆる、昼の御大祭いう報徳祭が執り行われますが。御徳に報い祀れるお互いの信心内容を持って、お祭りをお迎えさせてもらいたい。頂きたいとおもいます。以前に聞いたお話ですけども、3代金光様の御時代あちらに女中さん、なんか申しますかね。の御用頂いっとった方のお話しを又聞きに聞いた話ですけども。
ある朝金光様がお出ましになってお手洗いにお出でられると、のと廊下でばったりこう出会ってしまった。そしたら金光様が狭い廊下に手をついて、ちょうどわくど(かえる)の様な格好で、「早朝からご苦労様です」とその時分にはその話しを「ほう」と思う位な程度で頂いとりましたが、最近その御内容が解る様な気が致します。日頃の金光様の御心の中になる有り難いと言う一念が、そういう咄嗟の場合そういう形になって、まぁ現れたのだろうと思いますが。
一教の教主ともあろうお方が、一女中さんに対してそんなになさらんでもよさそうな、そんな風に聞きましたけど。そうせずにはおられなさらない金光様の心、この少うし解る様な気が致します。是はもう10年の前だったでしょうか、ここの修行生を連れまして久留米の、梅林寺さんに参拝した事がございました。私共が参りました事が伝へましたが、一人の修行僧、修行生のお坊さんが出てみられまして、それこそ黒光りする廊下にピタッと手をついておいでなされませっと手をついてご挨拶になって迎えられました。
そう言う風に矢張りまぁ教えられておられるのでしょうね。別に信者でもお坊さんでもない、いうならまぁ私し誰やらわからんものに対して、それこそ両手を廊下についてご挨拶を受けた時に、あぁいいもんだなぁうち当りでは本当に行儀が出来とらん。本当にますこし行儀を良くしないといけないね、というて修行生の方に申しましたけれども、これはそうせねばならんと教えられてからの、形のことでございますね。
信心とは私はそうせずにはおられない心、信心しておれば一年一年有難うなると仰せられますが。その一念一年有難うなって行く内容が、私しはこの金光様のお話しを頂いた時に、左程にいわゆる感心した頂き方は出来ませんでしたけれども。今日そのことを思わせて頂きますと、そうせずにはおられなさない金光様の御心が、少うし分る様な気が致します。お互いの心の中に頂いておる有り難いと言うものが、どの様な成長を遂げつつあるでしょうか。限りがありません。
最近は今の教祖様のお言葉をいつも思い出させてまらいます。全てのものに世話になる、お世話になる本当に同じいちいち事柄の中に、おんなじその事柄が有り難い度合いを含めておるのに気づきます。信心の楽しみはそれじゃないでしょうか。ただなら車に乗せてもらう、お世話になりますと言うのが昨日と今日とおんなじであってはならない。本当に心から今日もまたお世話になります。
その内容が深まって行く所に信心の楽しみ。おまいりせなんからお参りをする、お参りをせずにはおられない心がいやがうえにも募って来ると言う、そういう育ち方が出来ておるかどうか。本気で本気で稽古する、合楽理念にもとづけばというのが、それを実験実証していくならば、ただ一つの事にお世話になりますと言う事でも、そのお世話になりますの内容が、深い広い有り難いものになっていきょらなければ、本当の稽古をしているとは言えないと思う。
先だって毎月、月の4日が神愛会でここに関係をもつ教会の先生方がみんな集まります。私は最近参加致しませんから、その研修の模様をテープに取って頂いて、それをゆっくり聞かせて頂きます。こんどの4日のお話しを聞かせて頂いて。各教会いわゆる合楽でにもつどころの、ご布教の苦心談やらおかげ話やら、とうつ話を聞かせて頂きました。最後に最近合楽教会で修行致しました先生方が。次々と布教の現場でおかげを頂いておる、先生方の話を聞かせて頂いて。また一段と驚きを感じました。
合楽で5年6年または7年8年と修行させて頂いて、この人達はそれこそメダカの学校じゃないけれども、( ? )わかりょうとわかりょうるじゃろうかと。思う様な所もございますけれども、一人一人の発表を聞かせて頂いて、はぁ稽古と言う事の素晴らしい事。それに専念していうならば稽古をすると言う事。ちょうどその日の司会は、きょう前講をつとめておりました梶原先生が司会をやっておりましたが。もう司会の挨拶を聞きながら、わぁ素晴らしい事。
親先生があのようなご信心の中に現在あのようなご修行して下さってある。先生の様な御信心を積まれた方が、どうしてあぁいう難儀なことをなさんならんのだろうか。思えば思うほどどうしてと言う気が起ります。ところが最近頂きます御理解の中に、救われるより救う身になれと仰られたと言う、御教えを頂いた時、はぁ親先生はその事を( ? )と思わせて頂いたと言うお話しあいさつの中にしておりましたが。
最近私しの頂いておる信心を皆さんに一々お話ししても、到底お分かりにならないだろうと言う様な、私しの難しいところを通ておるわけですけれども。その御挨拶を聞かせて頂きながら、解っておるか解っていないか分らない様な風に思うておりましたけれども。この様にして求めこの様にして分って行っておるんだなぁと。どこにか相違点があればそういう方に解っているのであろうかと。結局われが助かると言う事よりも、救われると言う事よりも、救う身になる。
そういう取次ぎ者としてのしように専念させて頂いておると言う事が、信心を間違いなく祖出てて行くんだなと言う風に解らしてもらいましたが。ただぞろぞろついておるというだけではなくて、そこにはっきりそうした信心の、目標と言うものがおかれて稽古して頂いておるといつの間にか、5年6年と合楽にいうならぞろぞろついておっただけ様に思うておったけれども、いつの間にか分っておる。
山口の坂根先生はなんという、西浜田教会に新たな合楽理念の息吹に教会が生き生きとして来た。( ? )今度の秋の御大祭にはっきり、もう一から十まで合楽理念によるおかげと言うものを感じたと言う発表を致しておりました。先だって御祈念中に頂きました御教えに、これは坂根先生が発表しておりましたが。人に頼れば腹が立つ、人に頼れば腹が立つ、神に頼ればひれいが立つ、と頂いておる。
素晴らしいまったっくその通りです。合楽理念に元ずいていきょるけれども、人に頼りものに頼りしておったんではひれいは立ちません。人に頼れば腹が立つ、神に頼れば比例が立つと言う。素晴らしいでしょうこれが合楽の信心です。箱崎教会の佐田弘樹先生が発表しておりました。とにかく周囲でお取次ぎの御用をさして頂く。こんど参って来た信心に合楽理念に元ずいたお話をしよう、お話をしようと思うておると、私しの話は聞かずに、自分の言う事ばぁかり言う信者が参って来ます。
それで合楽理念に元ずいてこれを聞かせて頂くと言う事になりまして。次々とお参りを重ねておる内に、その信者が、合楽理念に元ずいて教えを受けた者の様なおかげの実証がその信者の上に現れておるのに驚きます。語らなくてもいい、合楽理念にもとずいてのお取次ぎ、そういう働きが起っておると言う様な話をしております。壱岐の末永喜久雄先生が発表してました。もう良い事悪い事につけて神様からはっきりとお気ずけを頂くという事は有り難い。とにかく夫婦それに、お母さん親先生が病院に入院中である。
あとそれこそ夫婦の者がもう3時頃起きて朝の御祈念をさしてもらう。一生懸命おかげでお参りも倍増。お下がりも倍増していっておる。生き生きとした私しが今度どこに布教に出るか分りませんけれども、布教に出た時の小手調べの様な修行を只今させて頂いておるという発表を致しておりましたが。もう本当にあのう、例えば合楽に5年6年または10年とこう浸って、浸っておって、それに合楽の信心に揉まれておると言うだけで、これだけの事が出来ると言う事を本当に私しは、まぁ技に感じました。
皆さんの場合もう長い信心さしておられますから。けど皆さんの場合はどうでしょうか、皆さんが共励会などで発表なさっておられる。もう聞かせて頂きますと成程素晴らしい。だからその素晴らしさがそこに留まっておらずに、日々の信心生活の中にどの様に表されておるかと。おんなし言葉の中にお世話になりますと言うそのお世話になりますと言う内容が、昨日と今日とが同じであったはならない。ならないから一遍お世話になりますちゅうとば二遍言うと言う様な事ではなくて。
本当にお世話になりますと、いま心の底から言わずにおれない内容を頂くためには、信心も手習いっも同じ事。手習いをしなければ分りません手習いを。これは善導寺の久保山先生、皆さんご承知の様に大変なまいうならば。筆の達人でした。私共が見ると素晴らしい字でしたけれども。一遍だった自分で是はよく出来たと思うたことがありません。もう暇さえあれば筆を持って稽古しとられました。
そこで私は思いますのにね。信心も手習いも同じこと日々、はぁ今日はよか稽古をさせてもろうただけじゃなくて。はぁあそこもあぁじゃいけじゃった、ここをもう少しは直さにゃいけなかったと。反省の心が日々でる様な稽古をして行きたい。必ず一段一段上がっていけれる、それこそ一段一段有難うなって行くと言う信心が身に着いてくると思うです。一段一段いわば一年一年有難うなって行く、信心の証しをおかげの上に現して行かなっければ、合楽の信心の値打ちはない。
いつまでもメダカの学校は水の中で、皆んなが楽しくかたまって泳いでいると言うだけではなくて、育たなければいけません。同じお世話になります、同じお参りでも、お参りの内容が有り難い方へ進んで行かなきゃならん。いよいよ報徳の御祭りは本当に報徳祭らしい、お徳に報いまつれれる。おかげで一年一年有難うなる信心を、頂いておりますと言う、心からお礼の申上げれれる有り難い信心を身に着けていきたい。
解らんなりに信心を続けておるようでありましても、いつのまにかそうした合楽の雰囲気という、合楽の信心に揉まれておるのでございますから。何かの時にそれが咄嗟の場合でもそれが、これは難しいと言う問題に直面した時でありましても。そこで合楽理念が発揮できるような信心だけは身に着けていきたい。合楽で稽古をさせて頂いた先生方が、いよいよぶっつけ本番の、まぁ取次ぎの座、取次ぎの場で合楽理念がどのように。生き生きとしておかげの元になっておるか。
それを思います時に、教育と言う事は素晴らしい事だなと思います。ここは信心の稽古に来る所、稽古の場です。教育を受けるところです。教え育てられるところです。にも拘らず教え育てられていないとするなら、ひとつお世話になりますのその一言でも。徹底した、お世話になります、言わねばならんのじゃない。そう言わずにおれない内容を求めての信心の稽古にまい進したいと思います。
どうぞ。